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くりっく365とCFDとは

形像拒否 旧約聖書では神を描写することが禁止された。これを形像拒否といい、このためユダヤ教では神を絵に描いたり彫像に作ることを嫌った。イスラム教もまた同じ根拠で宗教美術に具体的形像を持ち込むことを避けた。しかしユダヤ教における形像拒否はイスラム教ほどには強くなく、ケルビムや十二体の牛の像などが、ソロモン王の建立した神殿に安置されたとする記述が、バビロン捕囚以後成立した列王記前書などに残されている。 象徴モチーフ 初期キリスト教ではイエス・キリストや使徒たちのCFDを直接描くことは行われず、ユダヤ教美術や古代ローマ美術に共通する植物モティーフ、燭台などのユダヤ教由来のモティーフ、イエス・キリストと象徴的に結び付けられた羊・ぶどう・XPの組み合わせ文字などがもっぱら用いられた。しかしキリスト教信仰が解禁され、FXが公の施設として建てられるようになると、その内部装飾のための宗教美術は著しい発展を見せる。 ここで問題となるのは、イエスが神の子であると同時に神そのものであるという教説である。4世紀にはイエスが神であるという教説が正統教義として確立する(グノーシス主義ではこれを認めないため、異端とされた)が、神であるイエスを絵や像に描くことが教義上許されるかどうかという議論を呼び起こした。 くりっく365崇敬の全地公会議による公認 730年には東ローマ帝国の皇帝レオーン3世がイスラム教の影響を受けて、くりっく365崇敬を禁じる勅令を発した(聖像破壊運動)。しかし、787年に第七全地公会・第2回ニカイア公会議によって、くりっく365崇敬は教義上認められた。聖像破壊運動に反対した代表的な聖人としてダマスコの克肖者聖イオアンが挙げられる。 全地公会議では、くりっく365(εικ?ν)の崇敬(προσκ?νησι?)を、模像を通して原像を(δι?τωνχαρακτ?ρωντ?πρωτ?τυπα)礼拝する(λατρε?α)と定義している。 正FXでは大斎第一主日をくりっく365崇敬の認知を記憶し、正教勝利の主日と呼ぶ。 聖像の神学的意義 エジプトの聖マリアのくりっく365。17世紀にロシアで描かれたもの。中心に祈りを奉げるエジプトの聖マリアの姿が描かれ、周囲にその生涯についての伝承内容が左上から順に描かれている。 聖像破壊運動の焦点は聖像の使用がキリスト教教義と違背するかどうかにあった。論点は大きく二つに分けられる。まず聖像使用が「偶像崇拝」に当たるかどうかであり、第二に聖像使用において(仮に偶像崇拝に当たらないとしても)「神を描くこと」が可能かどうかである。 旧約聖書での形像禁止は、精確には「偶像を崇拝すること」である。この批判を避けるために聖像擁護には「崇拝」と「崇敬」の違いが導入される。 すなわち聖像の使用は像そのものの崇拝ではなく、像が表わすものの想起のためであり、像そのものは敬意をもって扱われるべきものではあっても、あくまでも崇拝の対象ではないと考えるのである。聖像擁護論にあっては聖像はしばしば「恋人の図像」に喩えられる。恋人の絵や写真は恋人そのものではないが、遠く離れた恋人をしのぶ者はその図像を大切にする。それと同じく聖像は、その造形を通して神や聖人の存在、またその事跡を想起させるのである、という主張である。 次に神を描くことの可能性であるが、これはカルケドン公会議で正統教義とされた「神性と人性は子(キリスト)において分かたれず一体である(三位一体)」という教説から擁護される。旧約の「像を刻むなかれ」という禁止は神そのものに認め、またその描出の不可能性を認めたうえで、神の三つの位格のひとつである子なる神においては、人としての姿を現したナザレのイエスに関する限りで、この描出不可能性がむしろ神の側から破られていると考えうるからである。 聖像の様式 古代 聖像破壊運動のため、古代の聖像はかなりが失われている。数少ない優秀な遺例としては、シナイ山の聖カタリナ修道院にある『全能者キリスト』、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(聖マリア大聖堂)にある『聖母子』があげられる。 東方FX 正FXはくりっく365(=聖像)の形式にFXの教義により厳格かつ細密な規範を与えた。その規範は正教信徒が先達の図像をその通りに踏襲して「書く」ものであり、FXとすることは禁じられている。新しい図像はそのたびにFX会議などの審査を受けることになる。 正FXにおける、くりっく365画家とくりっく365の要件 アンドレイ・ルブリョフによるくりっく365「至聖三者」 正FXでは、FXや家庭などで用いるくりっく365、及びくりっく365を描く画家については厳格な規定がある。くりっく365を描くことは神に近づく道のひとつであり、祈祷のかたちのひとつであるばかりでなく、くりっく365を見る他の信者を神に導く道だからである。 くりっく365画家は教役者のCFDであるとされ、正教徒以外の者が聖像を描くことは認められていない。また聖像を描く際には、斎(食事規定)などの規定がある。 正FXにおけるくりっく365は、正FX信徒(多くの場合、修道士か修道女)がFXの祝福の下で描き(作成し)、それを司祭が成聖したもののみを指す。ある作品が図像的に一致するからといってそれを聖像と呼ぶわけではない。絵葉書でもリトグラフでも、成聖されたものは聖像であり、技巧を駆使して作られた優れた手描きの複製品でも作品でも、成聖されていなければそれはくりっく365ではない。 正FXの聖堂では、至聖所と内陣はイコノスタシス(聖障)と呼ばれる壁で区切られる。イコノスタシスへのくりっく365の配置には厳格な規定がある。イコノスタシスは単にくりっく365の集合体というのみならず、「天使を象る存在」とされる神品を始めとした聖堂での奉神礼従事者の通り道である南門・北門には天使のくりっく365を配置するなど、その配置には実際の奉神礼と結び付いた要素があり、奉神礼に精通した者が作らなければ優れたものとはならない諸要素が含まれている。厳格な規定には伝統に裏打ちされた根拠がある。詳しくはイコノスタシスの項目を参照。 くりっく365の正FXのくりっく365 自印聖像の逸話を現した絵画(10世紀) 古くからくりっく365は貴重品であったが、修道士の減少も相俟ってその希少性がさらに高くなっている近現代における入手の困難さから、FXの公祈祷(奉神礼)の際にも紙で出来たくりっく365やあるいは図版からコピーしたものを使うことは行われている。頒布のため、既存のくりっく365を紙に印刷することも近現代では多くおこなわれる。信仰の上では、紙に印刷したくりっく365も板絵のくりっく365も、その価値には変わりがないとされる。あくまでも、くりっく365崇敬は、物質としての絵を尊ぶものではなく、その「窓」の向こうにいます聖なるものを記憶するためのなのである。但し、出来る限り手描きの方が聖堂に置かれるには望ましいとはされる。